サテ(焼き鳥)を食べ袋に入ったお茶を飲んでいる

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インドネシアで焼き鳥はサテと呼ばれていて、一般的にローカルなレストランのメニューにあります。

夜に小腹が空いたらGojek(バイク便)を利用して出前を頼みます。サテ10本とお茶で300円くらい、配達料が85円くらいなので、手軽に頼むにはちょうど良いメニューです。袋に入っていてもお茶はお茶ですから。

 

ちなみに今日のGojekのお兄さんは日本の国旗のワッペン付けてたとさ。

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インドネシアのトイレの便器はいつも濡れていた

これ、ずっと不思議だったこと。 いつも便器が濡れていて、掃除で水を撒くのかと思っていたんだけど、違った。

あれなのだ、水と左手でお尻を洗う文化なのだ。どうりでティッシュがないトイレがあるはずだ。数ヶ月も滞在してずっと調べてなかったトイレ事情。

どの方式が清潔かはわからないけど、濡れている便器には座りたくないのでティッシュは備えていて欲しいのです。

君は、問題を告げるだけの述べた君になっていないか?

問題を表面化させて意見を述べる、述べた君。

述べた君は政治の世界や、一般の会社にも沢山いると思うのだが、 わたしはアートの世界に述べた君は参加して欲しくないと思うのです。

いや、すべての述べた君は建設的なステップを計画、実行できるような改革派に進化して欲しい。述べた君は、問題を見つける事で自分の承認欲求を満たそうとする行為で、例えばそれが未発見だったウイルスの特性や、ゲノムや脳の役割なら素晴らしいと思うのですが、皆が感じているような、世の中の問題や不満を語るだけでは、その価値は大した事はないのです。

話をアートに戻します。 わたしは芸術的表現の根拠はもっと根源的なものであって欲しいと個人的に願っています。 いや、相手にされなかった述べた君が、理由を追求しているうちに世離れして根源な何かにたどり着いてしまうというか。

「世離れし、根源的な何かに行くつく」 つまりより個としてのテーマを表現するものであって欲しいと思うのです。

君がどうとか、スカートがどうやらとか、そんな事を語ったところで、 一時的な趣向品であって、誰かの力に変わったりはしない。

そんな事を考える午後の夕暮れでした。

この星の意思

たったひとり、自分だけが存在する小さな世界で今日もコンテンポラリーダンスを踊り続けているような、そのような命が燃え続けていて。

誰に阻害されるわけでもなく、目に映る物の干渉も受けず、 ただ踊り続けている何かがある。

ここにあるそれが踊るのをやめる時、きっと他の誰かが踊り始めて そのような連鎖が肯定されているこの星の意思は、やはり命を紡ぐ事だと確信するのだ。

上司は返信の早さが大切な理由

このブログでは珍しいトピック。 仕事でのレスポンスの話です。

メールに限らず、会議でもチャットでも同じだけど 返事の内容が明確ではない、または遅い上司はそれだけで問題という事実について書いてみたいと思います。

理由は全く単純で、部下の仕事の流れを止めてしまうから。 思考の流れを止めると言ってもいい。 二日も待たせれば、人はリセットされて元の場所に戻るのが面倒になる。これは物理的な場所の感覚に近いと思う。

人に最高のパフォーマンスを出してもらおうと思えば、その人が取り組んでいるその勢いに乗らなければなりません。 理由も用意せず流れを止めたり逆流させようとすると、その瞬間失望や反発が生まれます。

そういう上司はおおよそ現状の認識がズレていたり、ただのエゴイストだったりします。

さてあなたが部下でこのような上司を持ってしまった場合、どうすればいいのでしょう。

一つは、立場度外視であなたがマネージメントを行う方法。これは正論や全体のメリットを考えて行う必要があります。

もう一つは、上司のスケジュールに自分の仕事のタイミングを合わせる方法。これは常に情報が共有されいる状況でないと難しかったりします。

他には..思いつきません。

とにかく自分に部下がいる場合は返信の速度を優先したいと思うのでした。

儚くとも個として生きるもの

もし明日死ぬとしたら、

好きな人と二人きり、遺跡のある広場ではしゃぎまわりたい。
思い出を語り、いよいよ最後の時にはお互い笑顔でお礼を言ってお別れをしたい。
プライドやあらゆる束縛に囚われなかった心を誇り、
ただ生命としての真っ直ぐさを忘れなかったことに満足する。

そのような生き方があるとしたら、それが出来るのは僕と君だけだと思う。
と書いてみたのは良いものの、肝心の相手がいないではないか。
まずはそれからという事はわかってはいるが、生命としての真っ直ぐさについて少し考えたい。


わたしは野放しされた雑草、草花にそれを感じる。

太陽に向かい愚直に伸び、種として生き延びるため、様々な形に進化した。

今日も明日もその姿勢は変わらない。

そう、彼らにとってそれは不変なのだ。

不変的な生き方を得ているという事なのだ。
人間は未熟な形で産まれ、生き延びるために様々な事を学び

同じ種族で競争しているうちに、真っ直ぐさを失ってしまう。

不変的な生き方はおおよそ存在せず、集団社会の中で自分を守る事が重要になり個として生きる意味を忘れてしまうのだ。
それを人生とするか否かはそれぞれ考えがあるだろうけど、

わたしは儚くとも個として存在するものに魅了されてしまうのだ。

個としての、わたしの不変な生き方と太陽を引き出しの中から探し出さなきゃな。

インドネシアでランドリー娘にケーキを差し入れた話

 インドネシア滞在中、いつも通う洗濯屋での話。

 

その店は、街の中心地から少し外れた場所にある乾燥機付きのお店。

平均で二、三日かかるインドネシアの洗濯サービスも、ここなら2時間程度で仕上がる。

そして娘たちが綺麗に畳んでくれる。

 

先日、二ヶ月ぶりにそこを訪問した時のことだ。

顔なじみになっていたのか、

「また来たの?」

みたいな事を言って私から速やかに洗濯物を取り上げたあと、

なんと私の名前を予約表に書き出したのだ。

 

名前、覚えていたんだ。と私は少し嬉しくなって差し入れすることに決めた。

 

ランドリーにはいつも洗濯娘が二、三人居て忙しそうに洗濯物を畳んだり、暇そうに携帯をいじったりしている。

今日は3人だから美味しいケーキでも買っていこう、ラマダン中だから夕方の5時半まで何も食べていないはずだから、その時間に再訪することにした。

 

ランドリーに戻った時、すでに私の洗濯物は仕上がって袋に入っていた。

いそいそと取り出して渡された後、ケーキを渡そうとすると、めちゃくちゃ驚いた顔でマカシー、マカシー(ありがとう)言って箱の中身を覗こうとしていた。

 

驚く姿と食欲が可愛いランドリー娘達。

少しのプレゼントでめっちゃ感謝されるから逆にこちらが嬉しくなった日曜の夕方でした。