外国から帰って感じたのは日本社会の不寛容さだった

しばらくインドネシアでの生活が続いて、つかの間の日本滞在。

変化しているものと、していないもののギャップ。

社会の中心になっている年齢層が全く違っているからなのか、雰囲気の違いに気持ちが若干迷子になっている。

 

「日本は成熟した社会システムがあり、なおかつ高齢化社会」

なんだかんだ言っても年功序列が機能して世の中が成り立っている。

大きな組織では中心となっている世代に歩調を合わせ折り合いをつけて生きていく事が重要事項になっているように思う。

 

一方インドネシアは「30歳弱が社会の中心年齢で、いかに経済的に安心を手に入れようか個々がチャンスを探している」

そのアグレッシブさに感化されてしまうと日本社会の価値観とは感覚が大きくずれてしまう。

 

「国は違えどやるべきことは同じ」そういう考えも持ってはいるが、自分が何を積み重ねるべきか、少しわからなくなっているのだ。

 

そう、海外生活で強く感じたのは「日々何かを積み重ね成長しなくては、状況は変わらない」と言う事だ。これは日本でも同じはずはのだが、ここでは「このままではダメだ」と感じる機会が少ない。むしろ「変化は悪いこと」のような空気すら感じるのだ。それは、「チャレンジを応援する寛容さや、不確実なものごとでもトライして良いという空気が足りないのだと思う。」

それは世の中に不自由さを感じさせる原因だと思うが、同時に安定をももたらしているのだと思う。

 

しかし、わたしがポジティブに考えられないことがある。それは先ほど書いた中心となる世代に歩調を合わせることで「同世代での嫉妬心や権力の縄張り意識が停滞をまねているのではないか?」と言う事だ。そしてそれが、世の中から寛容さを奪っているのではないかと言う事である。

 

中心となる世代がヒエラルキの上に立つのは、当然ありえることだが。

ただ、それだけでは世の中は面白くなくなる。

あこがれや、才能をリスペクトできる存在が大手を振って発言し活躍できる社会こそ、寛容で自由な空気を作るのではないかと考えたのであった。