無垢で危険な承認欲求
命は本来、欲求に対して真っ直ぐ伸びるものである。と、アパートの前に生え放題の雑草を見て思ったが、自分の髪の生え際を考えた瞬間、そうでもないかもしれないと疑念がよぎった。
幸い私は育毛教ではないので、生え際はどうでも良い。
しかし、問題はこの世界を支配し破壊する承認欲求なるものだ。誰が流行らせたのか最近よく耳にする。
大きな権力を誇示する者がこの欲求に狂ってしまうと、たちまち世の中のバランスが崩れ多数の屍が横たわる。
権力を持つものだけではない、ごく平凡な、私なような個人でさえ誰にも承認されなければ発狂しそうになり、救いを求めるであろう。
家に得体の知れない人形を飾り出すかも知れない。
これは、我々の住む世界のどこにでもあるリスクだ。一番身近と言っていいかもしれない。恐ろしい。
そして非常に見えずらい。空気を吸うことや食べる事と同じようなレベルで存在する欲求であるから気に留めないのである。
あいつ最近、二倍も空気吸ってない?など誰も言わない。酸欠気味になる人もいない。
では、狂うとはどう言う事なのだろうか?
「諸君、狂いたまえ」そう言ったのは松下村塾の指導者、後に明治維新の志士を多数送り出した吉田松陰である。彼の言葉の狂うとは、自分の志を持ちそれに対し必死に生きよと言う意味であり、欲求に狂うとは別の次元にある。
いや、別の次元ではなく真逆に位置するものかもしれない。
実際、承認欲求を目的とした狂に対抗できるものは、自分の志しを目指す狂だけなのだ。
自分の内面に対しても、社会に対してもそれは同じであると思う。
「窓ガラスを割って注目を集める」のに対して、窓ガラスを拭いて注目をされるようなものなのだ。
「他人から搾取した金で高級車を買って注目を集める」のに対して、歩き回って探した仕事を人に与え注目されるようなものなのだ。
後者は簡単ではないが、出来ないことではない。
我々は各々の志により承認されなければならないのである。